町田鶴川・武相荘 その1

白洲次郎という人は、日本近現代史好きの人の間で仮に「昭和の偉人十傑を選ぶ」なんていう遊びをしたら確実に有力候補になるに違いない傑物だと思いますが、一般的な知名度はそれほど高くないようです。日本史の教科書にも登場していないのではないかしらん。

実際、わたしがこの人のことを色々知ったのは近年になってからのことです。偶然同郷で神戸の豪商の子息であるとか、英国留学で欧米のエリートと交友関係を築いたとか、第二次大戦に類まれな才覚と堪能な英語でGHQとの交渉の矢面に立って渡り合ったとか、政界入りを嘱望されながら在野の身を貫き、いくつもの大会社の経営に携わったとか(東北電力の会長を務めたことは只見線沿線の旅で知りました)・・・。

その彼が41歳の時に移り住んで、生涯を暮らした家が東京・町田にあるというので、ちょっと興味を惹かれて訪ねてきました。

彼が東京の市街から離れて鶴川村(当時)を構えたのは、ジェントルマンは中央の政争から離れたところに身を置くべしという英国エリート流の考えによるものだったと言われています。

次郎が洒落で「武相荘(ぶあいそう)」と呼んだ山村の邸宅跡は、今では東京有数のベッドタウン町田市の住宅街の真ん中となり、小田急線の最寄り駅から徒歩15分ほどで訪ねられる資料館・ミュージアムとして一般に公開されています。

旧白洲邸 武相荘 Buaiso
白洲次郎・白洲正子。2人が移り住み、形作り、生涯を通して愛した家「武相荘」の紹介。施設利用情報・ニュース・次郎と正子にまつわる文献/書籍の紹介と通信販売

駐車場側から、竹林の中の小径を分け入って敷地内に入って行きます。

次郎本人が英国仕込みの洒落者であったことは知られていますが、それに加えて夫人の白洲正子も薩摩志士樺山侯爵家令嬢にして著名文筆家であり骨董収集家、今や女性雑誌が特集を組まない年は無い元祖ハイセンス文化人と言って良い人です。隠居暮らしの田舎家などでは全く無くて、敷地内のあちこちに風趣に富んだ設えがしてあって、屋敷の主たちがカントリーライフを粋に楽しんだ住まいであることが伝わってきます。

もちろん、これらが次郎・正子の時代に据えられたものという保証は何もないのですが、彼らの暮らした家ならさもありなん、という感じがします。

そして、これが屋敷の母屋。

そして縁側方向からの茅葺母屋の全景。今年は夏と秋の「間」が無くて、ほんの数日の間にいきなり季節が深まった感じがします。

この母屋は家の中もほぼ当時のまま保存されていて、現在は「ミュージアム」になっています。有料で、残念ながら撮影不可なのでここでは紹介できませんが白洲夫妻に興味がある方なら是非とも見学されることをお勧めしたい。

周りの木立を抜けて縁側に差しかける秋の陽光が美しい。

屋敷の敷地内には小さいながら周回散策路が設けられていて、なかなかの風情です。

さて屋敷の敷地には、ミュージアムになっている母屋以外にもいくつかの建物が点在しています。そのあたりでもう少し写真の撮れ高があるので、次回ご紹介しましょう。

※そうそう、今回久しぶりに写真のアスペクト比が3:2なのに気が付かれましたか?肩の痛みが少しづつ取れてきたので、ながらくご無沙汰していたPENTAX K-3IIIにSIGMA17-70mmを付けて試しに持ち出してみたのです。
ああ、やっぱ撮ってて落ち着くわ、K-3III。今回は幸い肩の痛みには障りませんでしたから、これからも他のレンズ共々に段々と持ち出し機会を増やしていきたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました