京都 詩仙堂は風趣の結晶

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飽きない、懲りない京都散歩です。
私、京都にはけっこうしつこく通っているオヤジですが、今までここを未訪だったことをちょっと恥じた、というか悔いましたね。それくらい素晴らしかった。

洛北、詩仙堂です。今回ちょっと記事が長いですが、ご容赦ください。

まずは絵葉書っぽいけど多分絵葉書には採用されない、この写真。

バランスを欠いて不要なまでに手前の座敷を広く写しこんでしまいました。なぜかと言えば、ですね、座敷と庭が無人の、得難いこの瞬間を粘って待った小さな勝利に酔って、思わず強調してしまったのです(苦笑)。

10:30AMくらいまでの時間帯に限っては、数分の忍耐でこういう瞬間が撮れるくらい、観光客密度は低かったです。

時間を巻き戻しましょう。
9:30AM、まだ人影もまばらな詩仙堂に到着しまして、交通整理の係員さんに見守られて入門。階段を登り始めた瞬間から、ただ事でない感じがしました。

なんだ、これは。

なんでもない入口のこの小径ですでに、「グッと」くるこの感じは。

生垣の門を潜ります。この門の風情がまた、とんでもなく濃ゆい。

母屋の周りはこんな感じ。この壁のくすみ具合、異形に(たぶん禅的に意味のある形に)くりぬかれた書院の窓と障子のバランス、竹垣や裏口(たぶん)のエクステリアの渋さ、無造作に置かれた石の表情、そして我関せずと咲くサツキ・・・。

なんですか、これは?
このぐさぐさくるパワーは?

建物の内部を撮ることはNGなので、お見せできませんが、端正な鴨居と茅葺を交えた天井の微妙なニュアンス、詩仙の間に飾られた中国の詩人たちの肖像の無言の圧力、庭に向けてフルオープンな造りで、外庭と部屋の中が地続きで一体になったような不思議な解放感・・・

観光客は上がれませんが、建物の上層にはこれまた禅的に有難そうな造りの丸窓の小部屋が設えてあって、その名が「嘯月(しょうげつ)楼」。丸窓から月を見て吟じることを”月をうそぶく”と名付けるところが、これまたなんとも。

拙い私の写真と文章で、お伝えしきれないのがもどかしいですが、全くそういう道とは無縁の無粋な私にすら、こうして絶え間なく、ぐさぐさと突き刺さってきて、それとわからせる、この剥き出しの風趣パワー。

貴族趣味的な雅やかな美とは違う、禅的な、ストイックな趣き。

みなさん、詩仙堂はですね、キケンです。
強力な風趣結界が張られていて、母屋は風趣が結晶化したものです。短時間でも滞在するとあてられて、帰ってこれなくなることがあります。

私、気が付くと、この母屋の中で電池が切れるまでシャッター切ってました。では電池を入れ替えて気分も変えて、庭に出れば少し安全かというと、屋外でも風趣結界の強さは下がりません。

藤棚です。他の華やかな色ではなく、無垢な白藤です。キケン極まりないです。

石橋の形、樹木の形、いちいち破壊力が高く、注意が必要です。

風趣結界を形成しているパワーの源はどうやら庭にあるようです。
”音”が怪しいと推理しました。有名な「ししおどし」のガコッっというあの音。あの音が届くところまでが、おそらく結界の有効範囲ではないかと思います。

最も結界の強いところなのでキケンでしたが、ししおどしに肉迫し、ガコッの決定的瞬間を撮ることに成功しました。

詩仙堂の風趣結界の仕組みを解明した私は、ようやく少し正気になって出口に戻ってきました。脱出する前に、もう少し撮っておきましょう。

座敷から別角度で庭を眺めて1枚。どこからどう眺めても趣が深い。

結界の出口に向かって1枚。

立ち去る時にすら強烈に風趣を感じさせる、詩仙堂パワーです。滞在2時間ですっかり感化されました。

最後は冗談じゃなく、まじめに。
春夏秋冬、四季それぞれの風趣を求めて、また詩仙堂を訪ねることを密かに誓いました。ほんと、なぜ今まで見逃していたのでしょうか。

今回の写真はすべてPENTAX KPとHD DA16-85mmで撮っています。
長々と最後まで見ていただいて、ありがとうございました。

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