風景論以後

というなにやら難しげなタイトルの写真展を見に行ってきました。

会場は、開業25年を経てだいぶ年季が入ってきたとはいえ、依然としてお洒落空間な恵比寿ガーデンプレイスの中の・・・

こちら、東京都写真美術館です。

東京に永く住んで写真愛好家を自称しているわりに、恥ずかしながらこの美術館は初訪問です。

複数の展覧会が開催されていましたが、わたしが観たのはこれです。

展覧会自体は撮影不可なので写真では紹介できず、ご興味があれば観に行ってもらうしかありませんが・・・今回はいろいろ刺激になったので、無駄話とは思いますが少し感想を備忘録的にアップしておきます。各作家の敬称略で失礼。

わたしは笑っちゃうくらい一般教養の乏しいおじさんなので、そもそも風景論を識りません。パンフレットなどをもらって俄かに浅知恵を付けたところでは、松田政男「風景の死滅(1971)」あたりからいわゆる全共闘世代の論客によって盛んに語られた「均質化する日本の都市風景は国家と資本という権力そのもの」という論調が、この展覧会のいう「風景論」の中核領域のようです。

身の回りの何でもない日常の風景こそが、わたしたちを搾取するものの象徴なのだ、今こそ戦って死ね、人民よ。

という文脈なのかな。会場では松田の他、スチル&ムービー作品で若松孝二や大島渚などが70年代風景論の担い手として紹介されていました。

わたしの方はと言えば、全く我流の自己満足ですが、しょうもない都市近郊スナップを撮り歩くことがあるので「都市風景をどう撮るか」にはそれなりの関心を持っています。

全共闘世代の先輩方とは世界観がずいぶん違うので、上記の風景論にはほとんどシンパシーを感じませんが、それでも撮られた写真や映画作品から伝わる切迫感とか疎外感とかには、なかなか惹かれるものがありました。

展覧会はその70年代から2000年以降まで、”風景論以後”の各世代のアーティストによる「都市風景を撮る」スチル・ムービー作品を展示してくれました。それぞれ作家性の強いアート作品なので、ピンとくるものもあれば、こないものもあります。個別に言えば松田・足立正生らの映画「連続射殺魔(略称)」は確かに強烈で、その他にも今井祝雄の「阿倍野筋」や崟(たかし)利子の「伊丹」といった映像作品や、笹岡啓子の「公園都市・広島」(いずれもタイトル記憶曖昧です)が印象深かった。

そして、それぞれの作風やメッセージの違いを脇に置くとして、70年代から現代の都市風景という、まさに私自身が生きてきた舞台環境そのものが題材になっているので、どの作品を見ても、単純に「懐かしい、こうだったよな」という感慨が3割くらいあり、それに加えて「これをこう見て切り取るのか」という7割の驚きがありました。

会期末までもうしばらくあるので、これから観に行こうかという人のために貴重な情報の乗ったパンフレットの裏面情報もアップしておきます。

そういえば、最近目にした別の「風景論」論議で聞きかじったのですが、

客観的に見えているありさまは景観。これに主観的なものの見方や感じ方を加わえたものが風景。つまり、そこに「ある」景観を、個人が「意志をもって見る」時にはじめて風景になる。

という考え方があるそうです。見えているものを漫然と写すのではなく「ある意志をもって撮る」のが風景写真なのだと考えると、好き嫌いを別にして展覧会で観たのは間違いなく「都市風景写真」で、それに引きかえわたしがいつも撮ってるのは何なんだろう。

いろいろ考えさせられ、刺激の多い展覧会見学でした。

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