パリ写真の世紀

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今回は、こちらの本の紹介記事です。

<パリ写真>の世紀 今橋映子 白水社

3月はじめに出かけたイベント「CP+ 2018」で今橋先生の講演を聞く機会があって、たいそう感銘を受けたので、講演のベースとなったこの本に興味が湧き、入手して読んだ次第です。予想に違わず、良い本でした。講演に劣らず非常に面白かった。

ただ、ハードルが2つあって、ひとつめは、2003年刊行のこの本、すでに新刊では手に入りません。アマゾンで古書検索して探しました。そこそこ綺麗な本が手に入って良かったですが、人気の本なんでしょうね、もともと結構お高い上に、新刊時点よりもわずかに高い値がついていました。

もうひとつの難点は、より本質的なもので、ひときわ目を惹く素敵な写真の表紙と魅力的なタイトルにもかかわらず、東大大学院の比較文化の博士による、歴とした研究書だということです。アカデミックな読書から何十年も遠ざかっているわが身には、めちゃめちゃ難解です。難しい上に分厚くてなかなか読み進めず、時々意識がぼうっと遠くなりかけました(笑)。

他の事情もありますが、3月初旬のCP+でこの本を知ってから、この記事投稿に至るまで優に2か月近くかかったのは、読了に物凄く時間がかかったからです。

タイトルで<パリ写真>とカギカッコが使われているのは、これが著者による一種の造語だからです。

1920年代末から1980年代にかけて、ソフトフォーカスなどの当時流行った絵画的手法を用いずに鮮明に撮られた、都市パリを映した写真。それも名所旧跡の絵葉書的な映像ではなく、パリやその郊外の街路に深く入り込んだ写真。これを著者は<パリ写真>と名付けています。

この本で著者は何を目指したのでしょうか? あとがきを一部引用してみます。

(引用開始)私が目指したのは、いわゆる狭義の写真史でも、写真批評でも、はたまた写真文化論でもない、第四の領域である
・・・中略・・・
もちろん私は本書で、これまで豊かな成果を上げてきた右のような方法論を否定したつもりは全くない。フォトジャーナリズムにおける映像の倫理とアートの境界、雑誌という社会的媒体の重要性と意味など、従来の成果をそのまま本書の方法に取り入れた面は少なくない。バルト、ソンタグ、ベンヤミン、プルデューという、写真批評で多用される『四種の神器』をあえて使わずに出発し、なおかつだからこそ彼らの啓示力に打たれたことも認めねばならない。
・・・中略・・・
しかし本書において私が少なくとも試みようとしたのは、写真の技術や用語、哲学や歴史に精通する者同士が、目くばせで互いに了解できるような叙述から、できるだけ遠くにいたいということであった。またそうでなければ、元来文学研究から出発した私が、写真を語ることなど到底できなかったのである
・・・中略・・・
『二十世紀の都市写真と文学』―――それは、私の専門である比較文学研究に比較芸術論の新たな視座を開拓したいという意味で、本社が独自に目指そうとしたテーマである(引用おわり)

はあはあ。どうです? 意識が飛びそうになりません? 割と呑み込みやすい「あとがき」でこの格調の高さです。本文の歯ごたえたるや(笑)

まあ、著者の意図は上記の長い引用の通りだとして、専門家でない私にとって本書の楽しみは、主役である<パリ写真>の数々を、解説付きで楽しめることです。

アジェ、ケルテス、クルル、ブラッサイ、ドアノー、カルティエ=ブレッソン、イジス、ホーヴァット、ファンデルエルスケン、クライン・・・などなど、この時代にパリを舞台に活躍した写真家たちの、才能溢れる写真を、堪能させてもらいました。

掲載写真の中でとりわけ惹きつけられた2点。ひとつは、本書で熱を入れて語られている写真家のひとり、ロベール・ドアノーの「かつてのゾーンの端で」という、荒地で廃車に乗って遊ぶ子供たちの写真。ふたつめは、ブラッサイの写真集「夜のパリ」の中の1枚と紹介されている、街明かりの下で石畳に佇む女性のシルエット写真。ともに、なんか問答無用で心を鷲掴みにされる気がします。

<パリ写真>をめぐるあれこれは、長らく写真をやられている方には既に過去の話題なのかもしれませんが、私のように中高年になって遅れてやってきた愛好家には、うれしい再発見がいっぱいある書籍でした。

まだまだ知らない世界がいっぱいある。こいつは楽しみです。 因みに素敵なカヴァー写真は「リュシアン・ルロンのドレスを着たエッフェル塔の上のリザ・フォンサグリーヴ」(ブルーメンフェルド 1939年)だそうです。

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